前回に引き続き、今回も書籍「いじめの構造」の感想です。
前回は、他人をコントロールして、自分の全能感を味わいたいという欲求がいじめにつながり、効果的な対策は「一気に相手をおそれさせるような方法を用いる」としていますが、一方で学校ではその実践が難しい、という内容でした。
今回は、その原因として学校にはびこる「群生秩序」と、著者が提案する新たな制度を紹介します。
神聖化される学校
市民社会の秩序のように、規範の準拠点が、そのときそのときのみんなのこころの動きを超えた普遍的な水準にある場合、いじめをしている者たちの付和雷同は「悪い」ことだ。
それに対して、ここで問題にしているノリの秩序(群生秩序)では、共同生活のその場その場で動いていく「いま・ここ」が、「正しさ」の基準となる。強制された学校コミューンの局面ごとに刻々と動いていく「いま・ここ」の雰囲気のメリハリ(ノリの強度)が、そのまま個を超えた畏怖の対象となり、規範の準拠点になる。
(p37・強調は著者による)学校を聖なる教育の共同体であるとして万人に強制する、これまでの教育制度が、群生秩序を蔓延させている。
(中略)
たとえば、路上で誰かが誰かを殴っているのを見たら、警察に通報するのが「あたりまえ」である。しかし、学校の「友だち」や「先生」から暴行や障害などの被害を受けたり、またはそれを目撃したりしたとき、学校の頭越しに警察に通報すれば、校内のみならず近隣で道徳的に非難されるのは加害者ではなく被害者や目撃者のほうである。
(p180-181・強調は著者による)
「組織の神聖化」が不正を隠す様子は、学校のみならず職場にもいえますね。会社の不正を告発した人が白い目で見られたり左遷させられる事例も後をたたず、訴訟にもなっています。
学校いじめ被害者を「悪いのは自分」という心理にさせる構図も、ブラック企業が労働者の人格を破壊する構図と似ています。
しかし、ネットで少し調べた限りでは、学校は企業とは違い、被害者が加害者(加害生徒や学校)に勝訴した例は少なく、裁判を起こしても最終的に棄却された例がほとんどです(参考:訴訟事例 1 いじめ・生徒間事件に関する裁判)。
その原因としては、予見が不可能とされたり、いじめの立証が難しかったりしているようで、勝訴した事例をみても和解金が請求額よりも少なくなっており、本当の意味で勝ったといえるのか疑問です。
いじめ被害者の多くは、学校の頭越しに警察沙汰や裁判沙汰を起こすといった(略)選択誌を思いつくこともできない。(中略)それに対して加害生徒グループや暴行教員は、自分たちが強ければ、やりたい放題、何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる。
(p169)学校共同体では見て見ぬふりが普通で、助けるほうが珍しい。
(中略)
こういう残酷で薄情な共生の現場で、いじめ被害者はよく、「仲良くできなくてごめんなさい」と泣く。そして、裏切り迫害する「友だち」に「仲良くしてもらおう」と必死になる。
(中略)
しかし、選択の余地がない場合には、多くの人ははいつくばって、「自分の性格を変えよう」とする。
(p176-177)市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が、狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ、集団生活のなかで自分を見失った人には、地獄に突き落とされるような苦しみになる。
(p179)
本書を読むと「自己否定の素地は学校で作られる」と言えるのかもしれません。
学校いじめが原因で後遺症をわずらい、いじめ加害者に訴訟を起こしても、敗訴する事が多く勝訴しても賠償金は小額。学校は、ブラック企業より加害者に優しい組織といえるかもしれません。
そのような学校や社会の解決策として、著者は以下のことを提案しています。
あらたな制度
教育制度の改革
- 短期的政策:学校の<聖域としての特権>を廃して学級制度を廃止
- 中長期的政策:
①義務教育の内容を日本社会で生活できる必要最低限にとどめる
②当人の意志によって参加する権利を有する教育(権利教育)を導入
③義務教育・権利教育ともバウチャー制にして、国や地方自治体のバックアップのもと、色々な団体で受けられるようにする(p199、226-227)
自由な社会へ
- 現在、人々を狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。生活圏の規模と流動(可能)性を拡大する。
- 公私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力を持つようになる。
(p210)
自由な社会で強制されるのは、なじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけだ。「存在を許す」というのは、攻撃しないという意味であって、「仲良く」するのとは違う。むしろ「仲良く」しない権利が保障されるからこそ、「存在を許す」ことが可能になる。
(p213)
大切なことは、人々がどういう生のスタイルを生きるべきかということではなく、魅力と幸福感を指針とする試行錯誤の結果に応じた生のスタイルを生きやすい生活環境が、用意されていることである。これが「生きやすい社会」なのである。
(p235)
なかなか大胆な提案ですね!
しかし、自己否定やブラック企業の素地が、現在の学校制度で作られているのだとしたら、ブラック企業の解決は学校の解決無くしてはありえません。
最近、雇用流動化の促進やブラック企業名公表が報道されていますが、学校制度の改革が話題になる日もそう遠くないのかもしれません。
haniwaのヒトコト
この本は文体が硬めで、独自の定義による表現も多いため、読みにくく感じてしまうかもしれません。しかし、ブラック企業の起源は学校かもしれないという推測もできるように、本書の内容はいじめに悩む当事者だけではなく多くの社会人の方にとっても一読の価値があります。
大変、同意するところが多いです。